オジギビト集会所本部長室R

路上観察サイト「オジギビト集会所」本部長のブログ

【オジギビト】その保護帽、被れる?

 自転車に乗る人はヘルメット(保護帽)着用が「努力義務」となって、二週間が過ぎた。自転車に乗るのを趣味としている人は以前から被っているので良しとして、高齢者の場合は半数程度は頭に何かしら(普通の帽子からヘルメットまで)乗せているようである。しかし、中高生は、まず例外なく、被っていない。(地方都市だからというわけではなく、全国的な傾向だろう、恐らく)
 まあ中高生の場合、「面倒くさい」とか「ダサい」とか「罰せられない」とか、そういう理由で被らずにいるのだろう。囲が被らないから」というのも強いだろうか。特に中学生ぐらいのうちは、「自分をカッコよく見せることが何より優先されるお年頃」なので、頭にこの種のものを乗せることは、非常に抵抗があるのかもしれない。

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 さて今回は、その保護帽のことで現場オジギビト衆にありがちな特徴を一つ。とり・みき氏の「街角のオジギビト」でも紹介されている、「被れない保護帽を持つオジギビトである。
 こうした人々は実に多い。とり氏も指摘されているが、オジギビトはほぼ例外なく、マンガ的・イラスト的デフォルメをされた人々である。従って、殆どの人は等身が低く、頭が大変大きくなっている。そうした人が保護帽を取って手に持ったり抱えたりする場合、保護帽がもの凄く巨大になったりして、一見して「このサイズ感は!?」と思ってしまうような状況になるわけである。

 こうした人々は、本集会所でも数多く確認している。今回はそれらの中でも、特に「頭と保護帽のサイズの違いが分かりすぎる」人々を少々、紹介しておきたい。その「分かりすぎる」状況とはすなわち、「保護帽を脱ぎかけている」=「頭とのサイズの差が最も目立つ」状態である。

 まずはこの人。この人の場合、かなりデフォルメが効いた人ではあるが、それほど保護帽と頭のサイズの差は目立つ感じではない。

東京都大田区蒲田の直立不動オジギビト(2013年9月)

 くっきり瞼と長い一本睫毛が魅力的である。髪型の分け目付近もツヤツヤに輝いている。頭身はだいたい二頭身程度に見えるが、もしかすると、オジギ姿勢による遠近感がかなりキツめについているのかもしれない(?)。いずれにしても、頭はかなり大きい。しかし保護帽は、ちょっと小さめな感があるものの、さほど違和感ないサイズである。

 しかしこの人はどうか。「脱ぎかけ」なので、サイズ差がかなり目立っている。

山形県山形市の直立不動型オジギビト(2018年9月)

 その保護帽、実は紙に書いた平面的なもの=お面的なものなのでは……?と思ってしまうような感じである。保護帽の紙の裏には、輪っか状にされた紙のバンドが、セロテープか何かで付けられているかのようである。いずれにしてもこのサイズでは、頭のうえにちょこんと乗せるだけだろう。

 そしてこの人も、同じ疑惑がある例である。

京都府京都市左京区の半身オジギビト(2016年11月)

 なかなかに自信ありげな表情である。それは良しとして、保護帽はお面的な感じで額の上に付けていただけなのでは……と思わせるサイズ感である。

 オジギビト界では、保護帽を取った場合には脇に抱えるのが典型的な形である。脇に抱えると、頭とのサイズの差が大変目立ってしまう人々は数多くいる。この人も、その典型的な例である。

京都府京都市北区の直立不動オジギビト(2014年1月)

 この人の場合も、保護帽はただ頭にちょこんと乗せているような感じになっていたことだろう。あるいは頭に向かって持ち上げるにつれて、徐々に巨大化するのか。
 この人も保護帽を抱えているが、頭身が低いのも相まって、何を抱えているのか?と一瞬思ってしまった。

京都府京都市北区の直立不動オジギビト(2012年12月)

 何となく、できるだけ頭のサイズに保護帽の直径を合わせようとしたのでは……と思ったりもするが、それを真っ正直にやってしまうと、全体のバランスとしてますます奇妙な感じになってしまうのは確実である。この辺りで留めておくのが、恐らく適切と言えるだろう。

 このように頭と保護帽のサイズ差は、オジギビト界ではごく普通の話であり、路上観察者はそれをバカにしたりすることはない。むしろ、それをオジギビト衆の「愛すべき」特徴と捉えている。ごくたまに、オジギビトをデザインした方々を揶揄するような発言もあるようだが、それは全く褒められた話ではない。

 ちなみに、頭と保護帽のサイズ差に関して、本部長が遭遇した最も著しい例はこちら。

東京都・JR上野駅構内の直立不動オジギビト(2000年2月)

 全体の感じからして、かなり手書き感のある人である。右手に持っているものは何か?と思ってよく見ると、これこそが彼の被るべき保護帽であった。一瞬、コーヒー皿的なものを持っているのかと思ったものである。ちなみにこの人は、とり氏の「街角のオジギビト」でも紹介されている。
 最近はこういう感じの「良い味出してる」オジギビトがめっきり減ってしまい、小綺麗にまとまったばかりになってしまった。懐古主義を振りかざすわけではないが、オジギビト界にももっと「先祖返り」的な自由奔放さが戻ってきても良いのでは……と、継続してオジギビト衆や飛び出し児童など、路上で活動する人々を見てきた者としては、幾らか思わなくもない。折角、PCの普及などで、素人でもかなり手軽に絵を描いたりプリントしたりできる環境が広まっているのだから……と。90年代から既にハンドメイドのものは幾つもあるようだが、今現在はますますその敷居は低くなっているはずである。もっと「画伯」が出てきてほしいものである。

 保護帽絡みのことは、またいずれそのうち、内輪型などに関して紹介してみたい。

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